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2024年12月7日(土) ディスカッション「2024年個人テーマ発表 VOL.2+2025年テーマ決定」
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・2024年個人テーマ発表 VOL.2 (当日発表順) ●世界のトイレピクトグラム(Koさん) ピクトグラムは図記号とも呼ばれ、安全や情報を正確に伝えるために、不要なものを削ぎ落としてできあがった究極のデザインです。 古代エジプトのヒエログリフ(象形文字)、メソポタミアの楔形文字、中国の甲骨文字などが、ピクトグラムの起源と言われ、中世に現れた西洋のエンブレムや日本の家紋なども、ピクトグラムの原型と言われます。近代史的には、1920年頃にオーストリアの社会学者オットー・ノイラートが発案したアイソタイプがピクトグラムの原型として有名です。 ISO(国際標準化機構)の規格の男女トイレピクトグラム、オトル・アイヒャーのピクトグラム、USDOT(米国運輸省)がAIGA(アメリカ・グラフィックアーツ協会)の協力を得て策定したピクトグラム、アメリカのADA法(障害を持つアメリカ人法)によって規定されたトイレの表示など、世界のトイレピクトグラムを皆さんと一緒に見ていきました。 |
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●「しめ飾り」について(Suさん) 2024年の個人テーマは「信仰とデザイン」として、私たちにより身近な日本の伝統的なデザインの具体例として「しめ飾り」をとりあげ、その成立や造形的展開について調べてみました。 日本固有の信仰、とりわけ土着の民間信仰は、仏教など外来の信仰と混じりあい、少しずつ形を変えながら続いてきました。そのバリエーションはきわめて多様ですが、共通するのは「人はこの世を去った後も私たちを見守りながら共に暮らしている」という感覚です。「見えるもの」と「見えないもの」がともに暮らし、この世とあの世の境界線は完全に断絶したものではなく、往還できるという考え方に根差しています。 しめ飾りは、正月を祝って家の門戸や暮らしの要となる台所、藏や納屋など様々な場所にさげる飾りです。神聖な場所とそうでない場所を区別する境界であると同時に、その年の実りと幸いをもたらす「歳神様」を迎え入れるための目印でもあります。 その原型は、神社などでみられる「しめ縄」です。しめ飾りには、邪気を払って五穀豊穣を願う稲妻型の紙垂(しで)や、「齢垂(しだ)る」にかけて長寿を意味するシダ類の裏白、絶え間ない世代交代を願うユズリハ、「代々栄える」を意味ある橙などの縁起物をあしらうのが一般的です。 しめ飾りの歴史は日本の稲作文化と深く関わっています。祭事や神具に欠かせないものの代表が「しめ縄」でした。結界を表すしめ縄を正月に用いる習慣は、平安から中世にかけて徐々に広まっていきましたが、装飾的な要素を備えた「しめ飾り」が登場するのは、近世に入ってからで、多様化し各地に広がったのは、第二次世界大戦後と考えられます。 しめ飾りのかたちは、しめ縄を原型として、@太くするAサゲをつけるB曲げる、丸めるの3パターンを組み合わせることで、全国各地で様々なデザインが生まれました。代表的な事例として、牛蒡じめ、大根じめ、宝珠、前垂れ、輪飾りなどを見ていきました。 |
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●倉俣史朗―『倉俣史朗を再読する』より(Taさん) 倉俣史朗は、お父様の職場であった理化学研究所の社宅で生まれました。理化学研究所の敷地内にいろいろな建築や、工作場、建材置き場、倉庫があり、そこが遊び場で原風景となりました。日当たりも良い庭には椿が多く、椿の花がポタッと落ちる光景と、映画「椿三十郎」の中の介錯で落ちる首のイメージがつながり、椿が落ちないようにという思いから「ミス・ブランチ」がデザインされました。 終戦後、疎開先から東京に戻り観た、アンデパンダン展の光と影に感動し、デザインに目覚め、デュシャンの具体から影響を受けたそうです。また倉俣にはあこがれていた大工の棟梁がおり、その棟梁の仕事ぶりから、スケッチに書かず頭の中のイメージを図面に落とし込むことにこだわりました。倉俣の周りには、倉俣のイメージをかたちにする職人たちの技術がありました。 今はなき「エドワーズ大阪支社ビル」や、シンプルで機能的な「エクスバンドメタル」を見ました。三宅一生と仲が良く、ショップデザインを手掛けました。「デザインははかなくあるための行為」という言葉を残しています。 |
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●デザインの力(Naさん) 文様・装飾などのかたち=デザインは、歴史を通じて人々の心理や行動に大きな影響をもたらしてきました。(歴史的デザイン)「何千年、何万年ものあいだに行き交った人間たちの“生命力”は、“デザイン力”となり、交流をくりかえして、現在も続いている。デザインとは単につくられた形態、意匠という意味以前に、構想、設計の意味と歴史的意義があるのです。」(『阿修羅のジュエリー』鶴岡真弓より)古来、文様は自然や神の力の象徴であり、建物の装飾や、身につける衣類等に取り入れることで、加護や恩恵を得られるものと信じられていました。幸運や魔除けを祈るお守り、権威や力を誇示するもの、どんな社会的集団に属するかなど、自分が何者かを表すしるし、といったデザインは、長い間人々の心のよりどころとなっていたのかもしれません。呪術的なかたちとして、スヴァスティカやメアンダー、宗教的なかたちとして、キリスト教の十字架、イスラム教の新月、仏教の法輪などを例示しました。 目を引くデザイン等がSNSで即時に拡散される現代、デザインが消費行動などに及ぼす影響は、ますます大きくなっています。パッケージやブランディングのデザインによって、驚くほどの売上増や、事業の発展につながった例も多く見られます。“ただの水”をクールな缶で売り出し、創業5年で企業価値14億ドルとなり、脱プラスチックもかなえた「リキッドデス」や、素材コラージュの自作パッケージで人気となった「TEA POND」を例示しました。 現代に至るまでに、デザインの定義は、かたちを超えて広がってきました。インダストリアルデザインの父、レイモンド・ローウィは、「デザインは、デザイナーだけに任せるには重要すぎる」という言葉を残しているそうです。デザインはこれからますます、社会そのものに関わるものになっていくかもしれないと、デザインの未来について考えました。行動を誘発するデザインとして、寄附のためクレジットカードをスワイプしたくなるデザインの「ソーシャル・スワイプ」と、不利な行動に誘導するダークパターンとも呼ばれる「ディセプティブデザイン」を例示しました。また、考えるきっかけを提示するデザインとして「クリティカル(スペキュラティブ)デザイン」が挙げられました。 |
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●理想と経営のはざまで〜ウィーン工房の変遷〜(Haさん) ウィーン工房はウィーン分離派のメンバーである、ヨーゼフ・ホフマン、コロマン・モーザーにより設立されました(1903年)。ウィーン分離派の理想に基づく、美的な日用品制作への関心が高く、採算性を度外視した贅沢なものづくりは、会社の財政難を常態化させました。設立当初は、ホフマンとモーザーがデザインした作品を原則として制作していました(幾何学様式)。 設立からわずか4年、ウィーン工房は芸術性と経済性の両立という困難な命題に直面し、経営難により大きく舵を切る転換期を迎え、モーザーは離脱し(19073年)、ホフマン、モーザー体制は崩壊しました。そして初期の幾何学様式から華やかな装飾的デザインへと転換しました。動植物の図柄、抽象的文様、鮮やかな色彩を用いたデザインが増加し、売上向上のため、前衛的なデザインよりも装飾的なデザインを採用しました。これは、「芸術家と職人の共同団体」から「デザイン企業」への脱皮でした。 上野リチは、日本の文化・芸術の影響を受けたヨーゼフ・ホフマンらに学び、ウィーン工房でデザイナーとして活躍しました。ホフマンの下で働いていた日本人建築家、上野伊三郎と結婚し、京都へ移住。「上野リチ」と名乗りました。 ウィーン工房の装飾的デザインへの変化は、ウィーンやパリの装飾文化を大いに発展させました。 |
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・総まとめ&2025年テーマ決定
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